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老久保サヨ

随筆集より

 (まえがき)
 父方の伯母、老久保サヨの最初の思い出は半世紀遡ります。
 東京オリンピック景気で日本全国に勢いのあった昭和三十年代終わりの頃でした。
 小学校入学前の私は伯母が率いるドレメの遠足に同行していました。河原でそろそろ昼食となったとき、私は岩で足を滑らせ下半身ずぶぬれになり、お尻丸だしにタオルで膝を覆っただけの情けない姿で弁当を食べる羽目になったのです。子供とはいえ大勢の女生徒の前で顔から火がでるほどの恥ずかしい思いをしたことを覚えています。そんなとき、伯母に豪快に笑い飛ばされてなぜか気分が軽くなったものです。
 伯母は本書の口絵のとおりのイメージでした。当時としてはなかなか独創的なファッションを好みベレー帽を愛用していたのを思い出します。
 飲まず食わずの倹約で切り開いた洋裁の道でさらなる試練を乗り越えて心身ともに充実した時期であったのだと思います。子供心に伯母の歯切れのよさには男性的に感じたものです。
 時が経った初老の伯母の思い出はバブル景気の華やかなりし昭和五十年代後半、ユリアナ幼稚園経営も軌道に乗りゾンタクラブ会長に就任するなど旭川では名が知れた頃のことです。
一銭の貯えもないのに腹を立てて建てたと云う家に泊まったのですがアイジョージの行きつけの店でお酒をご馳走になり、翌朝にはなんとも味わい深い味噌汁をいただきました。
 
曰く『少しだけ砂糖を入れると美味しいのさ』
 
 旭川調理学校初代校長の面目躍如かと思いましたが、こうして随筆を読み直してみますと青森から北海道に渡り、祖父(伯母の父)の倒産など苦労をともにした祖母(伯母の母)のおふくろの味だったのかもしれません。
 戦争を挟んで貧しさと幾度の困難に挫折することなく教育事業に身を捧げた伯母は、自ら記しているとおり生涯独身を貫き敬虔な信徒として天に召されました。しかし、その経歴を振り返りますと洋裁にはじまり、調理学校、幼稚園と良妻賢母の歩む道を標していることに気付きます。時代が異なれば平凡な女性としての生涯を送ったのかもしれません。
 このたび伯母の葬儀委員長を務めていただいた園長、内山直明氏の編集により追悼随筆集を発刊する運びとなりました。氏の巧みな選者ぶりに老久保サヨの人生が鮮やかに甦ります。
 旭川を愛し教育に身を捧げた日本人女性の随筆集として皆様の蔵書の一冊に加えていただけますと幸いです。
 
 平成二十四年五月二日
 
                             学校法人老久保学園ユリアナ幼稚園
                                    理事長 老久保 敦

デキチャッタラシイ

昭和51・12・20
 
 可愛いもんだよ。とよく先輩たちが言っていましたが本当に可愛いものです。特に、四、五才小学校へ入る前どころが可愛さ無邪気さの盛りのようです。
 その可愛らしさを知らなかったむかし私は、ところ嫌わず何処ででも亀の子をひっくり返したようにして駄々を捏ねている子供を見ると、さあ腹が立って、あの小面憎さについ親に代わって挙骨をはってやりたくて仕様がなかった。
 ところがそんな私が、全財産を投じ(ということは学校法人つまり国に学校を寄付するのです)幼稚園を建て、駄々っ子の親玉ばかりを相手に四六時中過ごすという幼稚園の園長さんになったのですからよくよく考がえて見るなら本当に、人の一生といおうか心の変化といおうかわからないものです。
 それだけに、関係もない駄々っ子にさえ腹をたてていた私を知る周囲の者は、その変貌ぶりに戸惑うこと戸惑うこと。そのあまりの戸惑いぶりについ私も戸惑いが感染おかしな気持ちを味わっております。
 それで、この仕事はどうも無理のようで、といって中止に及んでも一旦国に寄付をした幼稚園でありますから、びた一文戻るわけではありません。そこでこの先何もせず素っかんぴんで生きていくわけにもまいりません。でやはり園長さんをしていくより他に方法(て)がないのであります。
 今私が幼稚園をやって、ひとつの心配を除いて考がえるなら、この方向に進んだことに私は全幅の幸せを感じているのです。
 駄々っ子であるはずの幼児たちは駄々っ子どころかとても可愛い生き物です。嘗ての鬼心の園長の私を毎朝今や遅しと玄関に待ち受けいろいろの話題をもって迎え仲間に入れて心をたのしくしてくれる子らです。だからつい玄関先まで、借金のこと、仕事のことあれこれ思い悩んでいたのにドアを押したとたん頭の中のもやもやがサーッと吹っ飛び嘘のように楽しくなり、幼児らのおしゃべりの中へのめり込んでいくから本当に不思議です。思うに、幼稚園のドアは人間界のわずらわしさの明暗を完全に切換える魔力をもっています。
 渡る世間は因果応報、先に一つの心配を除けばと書きました一つの心配とは、予定通りに園児が集まっていない。それは少々大袈裟な言いようでありますが死活問題であります。そこで昔洋裁学校の院長をやっていた頃の卒業生らに逢うと、結婚を勧めたり子供を沢山生むことを奨励したりするものだから「おや?先生は何時から結婚反対の看板を降ろしたのですか?」と、意地が悪い。実際私もそんなこといってみてもどれほどの効果がある。と、内心は思ってはいるのだが、仕様もないままに結婚しなさい。子供を生みなさいです。
 そう、覚えがあります。嘗て彼女らが、恋だの愛だのといって少しも洋裁の勉強に身を入れないことに腹をたて「男の奴隷になるような結婚を何故急ぐ、全く気が知れぬ!!」その気の知れない連中の子供たちが今通園して来ているのだから、なんとも調子の悪い話。
 一頃、「お客様は神様です」といって客を阿(おもね)て世間の人も驚せた歌手が居りましたが、今の私はかの歌手の心境がよくわかり、決して笑えない、現に卒業生らがどう詰まろうと、可愛い子供らをこうして通園させて呉れているそのお陰で私はこの年になって、園児たちの顔を見、声が聞きたいばかりに毎朝、がばがばと起き出し、風の又三郎か、素っ飛びの三吉かの勢いで幼稚園へ出勤して来ます。そして子供と一緒にいるとき、私は人生の生甲斐ここに極まり、いつ息を引き取っても悔いはないとおもいつゞけています。だから私にとっては、
 
「父母様は観世音菩薩さまでございます」
 
母親参観日でした。
 
「ターちゃんのお母さん来ていないようね」
 
「デキチャッタラシイノ」
 
「え?何ができたの?おでき、たんこぶ」
 
「アノネエー、アカンボーがサ」
 
ああ、また一人園児が増えた。ありがたい!!それにしても、おでき!たんこぶ!他に考がえられなかったものか。何時までも幼くて恥かしい。

老久保サヨ プロフィール

大正10年1月1日  北海道士別に生まれる。
昭和19年      北海道ドレスメーカー女学院(札幌)師範科卒業同学院教師となる。
昭和22年      同学院副校長に昇任。
昭和25年      同学院旭川分院開設。初代分院長として旭川に赴任。
昭和39年      この年より毎年海外旅行に出かけ、世界各地を訪ねる。
昭和47年      厚生省認可旭川調理専門学院開設。同校校長に就任。
昭和49年12月   学校法人老久保学園ユリアナ幼稚園設置認可。初代理事長、園長に就任。
昭和50年4月    ユリアナ幼稚園開園。2学級編成(4歳児、5歳児)。
昭和55年4月    3歳児学級を増設。
平成3年3月     ユリアナ幼稚園長辞任。
平成17年7月    ユリアナ幼稚園退任。
平成23年5月2日  没 (享年90歳)
 
老久保小夜子の名前で、随筆を北海道新聞など各紙・誌に発表。著書に「相撲甚句」、「ずっこけ」、「極楽とんぼ」がある。
 

随筆集をお頒けします。

老久保サヨ先生は、随筆などを発表するときにペンネームとして小夜子をつかっていました。
ここに一部を掲載した「老久保小夜子随筆集」(A5版 148頁)を1冊2千円でお頒けします。(送料は当方にて負担いたします。)ご希望の方は、当方までご連絡をお願いいたします。
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学校法人 老久保学園
ユリアナ幼稚園
〒070-8016
北海道旭川市神居6条19丁目44
TEL.0166-62-1203
FAX.0166-62-1399

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